電話が未発達の時代に火災の早期発見に活躍した消防署の望楼ってどんなの?

見かけることは少なくなったけど、あの消防署にあるデッカイ塔は一体・・!?

消防署の望楼は火の見やぐらです

遠隔地との通信や、ヘリコプターといった運用がまだ未発達であった近代以前では手っ取り早く遠方を見渡す手段として、高い「火の見やぐら」を設置しました。

高さは10メートル程度から、40メートルを超えるものまであり、この高い望楼の一番上から消防士が望遠鏡で普段から火災の発生を30分交代で監視していました。冬は凍える勤務だったそうで、トイレも苦労したようです。

電話などが未発達の時代ですから、このような運用で火災の早期発見をして初期消火を補っていたわけです。

昭和2年に札幌市に設置されたものは高さが約43メートルもあり、札幌市内はおろか、遠く空知地方も見通せました。しかし、高層ビルが建設され、役目を終えたとして昭和43年に取り壊されました。

さて、その望楼の歴史は意外と古く、慶安3(1650)年に定火消(じょうびけし)が組織されたとき、火消屋敷や大名屋敷(八万石以上の大名のみとされた)、それに町の要所に建てられた約9メートの火の見櫓(やぐら)までルーツがさかのぼるようです。

ところが、この当時の火の見櫓(やぐら)の制限がちょっとすごい。

定火消以外の火の見櫓では江戸城に面した火の見の部分は板で塞いで見えないようにしたり、町方の火の見櫓の脚は板で囲ってはならないなど、いろいろな制限があったようです。

公共の保安より江戸城の体面を優先するという当時の世相が興味深いと言えます。

逃げる火事に苦しめられた望楼の見張り員!?煙の正体は?

大正時代になると、それまでの火の見櫓が望楼と呼ばれるようになりました。当時、有楽町にあった警視庁の本部庁舎の望楼にはじめてロビンソン風力計が取り付けられたのが、大正5(1916)年。

当時は火災のたびに気象庁に風速などを問い合わせるのも仕事だったと言います。昭和18年(1943年)になると、戦争による爆撃から望楼を守るために防爆板を張り付けられました。

そして時代は高度経済成長期の昭和40年代。

それまで主流であった煙を出して走る蒸気機関車が電車に代わり姿を消していきましたが、当時の東京ではそれは同時に消防職員が“逃げる火事”からの解放でもあったのです。

その逃げる火事の正体は、蒸気機関車が出す煙。

望楼勤務の見張り員は視界の中に突然まっくろい煙が飛びこんでくると、指令につながる電話の受話器を思わず持ち上げたそうですが、蒸気機関車が出す煙と知ってほっと一息。

こんな面白いエピソードは東京消防庁の公式サイトで読めます。

http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_71.htm

このような変遷をたどってきた望楼は近代以降、消防署に付設する形で設置されるようになりましたが、建築物の高層化によって展望がさえぎられるようになってきたこと、さらには一般家庭への電話の普及率が上がったことにより、望楼運用の主目的である火災の覚知(発見)機能が著しく低下してしまったため、東京消防庁では昭和48(1973)年6月1日からすべての望楼の運用を休止したそうです。

今は当たり前のように電話が発達して、通報者の位置も指令本部のモニターに瞬時に映し出される時代です。

また、昨今はヘリコプターと中継カメラ装置によって、一瞬で状況が本部に伝わりますから、かつての消防業務を支えた望楼も時代遅れとなり、新設される消防署では初めから設置されていません。

しかし、その勇壮な搭はまさに消防のシンボルだったのです。


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